♡航星日誌♡

・・・to boldly go where no one has gone before.

統一性の象徴である円

このように世界の原初は,相対立する2つの原理,「光と闇」,として示された. 同時にここで注目されることは,「曲がりくねって,・・・蛇(龍)のように」なったという闇という表現である. 既述のように,これは宇宙の「外周を取り巻く闇であって、自分の尾を口にくわえている巨大な龍である」p.75
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「それから,闇は湿潤なフュシスのようなものに変化した. それは名伏し難いほどに混沌とし,火のように煙を発し,・」(ヘルメス選書Ⅰ)と続く. p.75
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光の側から現れたロゴス(神の子)がフュシス(湿潤なカオス)に乗ると,四元素が生まれた(ヘルメス選書Ⅰ). 四元素とは,火(霊気と同義),空気,土,水である. ここではロゴスを男性原理とし,フュシスを女性原理とする性的結合の表象が用いられている,p.79
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要するに,混沌の状態にあったところに聖なる光が昇り,神の力が加えられて「湿潤なるもの」から元素が凝固した,というわけである. これは上述の「ポイマンドレース」の状況に似たものであるといえる. 四元素の出現は「神の意志」によるものであり,神の意志が世界を創造する行為の出発点であるとする主張は,ヘルメス文書の思想圏においては常識であったという. p.80
ーーー以上:小野俊夫,カオス論研究,近代文藝社ーー




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Michael Maier, Atalanta fugiens, 1618
Emblema XXI
Let man and woman from a circle
From which grows a square;
Around these put a triangle,
Embed them all in a square:
Then you will have the philosopher's stone.
If in your mind this dose not soon appear,
Geometry, well learned, will make it clear.



ーー以下転載ーー


象徴二一 男と女の外接円、ここから四角を三角を、さらには円をなぞれ。かくして汝、哲学の石を得ようぞ


男と女を内包すべく 円を描け
これには四辺形が等しき側面を張り
さらには三角形が引き出されるが
此れは全側面を又円に内接す さすれば石は現れる
さやふに偉大なる事象の汝が理性に閃かぬなら かくと識れよ
汝 幾何の原理をこそ解すれば万象を感得せむことを


 技術や科学の礎たるべき観念あるいは心像(イデア)は、もとよりひとの理性にふかく刻まれており、この記憶にふたたび立ち返ることで人間はあらゆる学理へと通ずることができる――これが、いともかしこき哲学者プラトンの見地が因るところである。これを立証しようとプラトンは、粗野で無学なひとりの少年を挙げ、意図するとせざるとに関わらず、こうした者がいかに正確に幾何学の命題への解答を感知しうるものかを述べている。若者は、なんら根拠への理解もないままに、難解な思惟の深淵までも見抜いた答えを提示する。ここからプラトンは、まなび会得することのなきままにも、理性に喚起された記憶がもたらす教理が子供のなかにはすでに在るということを結論するのだが、ここには*《偉大なる歳月(マグニュス・アニュス)》という四万八千年の太陽年周期に天界の変革を前にして、おなじ人物や事物や出来事が再び現れ繰り返されるという主張がほのめかされている。しかしこうしたことは全く現実的な根拠のない単なる夢想以外の何物でもないことは誰の目にも明らかである。我々は自らに認識の閃きがあることをこそ否定しはしないが、これは励起されて動きだしてこそ現実のものとなるのであって、これらが弛まぬ教練もなしに科学や技術の根幹となりうるほどに偉大なものであるとは、まったく肯定できかねる。
 人間から生じ来ったものでなければ、一体に科学や技術というものは何処から進展してきたのであろうか。あるいは古き人類の民へと、神が天界より下したものででもあるのだろうか。けれども我々はそのような問題については以下のように考える。まず、ある者が「灰に包まれて燃え盛る大量の炭火は、灰が除かれれば調理や暖房に使われるに充分なものとなる」という場合と、さらにまたある者が「ちいさな閃光は、まだ調理や暖房には充分ではなく、可能な限りの注意深い努力をかけて、着火され守られ扇がれ強められねばならず、さもなくば閃光は消え去って、ただ冷たい灰が残るばかりである」という場合のそれぞれには違いが在って、前者はプラトンの、後者はアリストテレスの見地に相当する。理論と実践はアリストテレスの学則に該当し、夢幻の想像力はプラトンのものである。これこそがプラトンの学院の門に刻まれていた「幾何学のなんたるかを識らぬ者は敷居を跨ぐべからず」という碑銘の謎を解く鍵でもあり、実に少年こそがそれを識っているということを示している。けれども、大人は子供よりも無学だといえるのだろうか、あるいは、大人たちは若い頃の知識を忘れてしまうとでもいうのであろうか。生まれて間もない動物たちは自然の本能に従って、火や水や崖などの危険を避けることからも、それはありうべきこととはいえない。かたや幼児はそういう危険をおのずから知りもせず避けることもできない。蜂や蝿や蚊ですら、経験がそれと知らせずとも、敏捷な飛び交いのさなかに自身にとって危険であるはずの火へと身を投じることがない。自然は、生まれたての人間には教えずとも、そうした虫たちにはそれを教え込むのである。たとえ仮に、幾何学が子供にとって生得のものであり、あるいは子供こそがそれを容易に受け入れうるものだとしても、弟子のアリストテレスでさえそれは知覚しうることだと主張しているのに、プラトンが*《円積法》を認識していなかったとは、いったいなぜ起こりえたのであろうか。
 哲学者たちは、円を操作して四角形へと変え、さらに三角形を経てふたたび円へと変換しようと試みる。ここに、自然探求者が《円積法》を識っていたことが示されているわけだが、歪みなく純真、かつ単一の物質が《円》によって感得され、《四角》は四元素として了解されるのである。これは、到達されるべきいとも完全なる物質形が、正方形によって表象される四元素の色彩から取得され、あるは分離されるということでもあり、こうなると《円積法》は、じつに自然哲学について述べたものであることが誰にとっても明白なこととなる。これは、いかなる数学的な命題から引き出された定理よりもずっと多くの利益を人々にもたらし、人間の理性を鼓舞する光明となる。《円積法》を完成させようとするのが幾何学者であれば、この測量士は立体にまつわる法則の体系を計算し上げ、それが現実に適応しうるものかを確かめるのである。球体の表面積から体積を測定し、この体積とおなじ立方体を求めなければならないのである。
 さらに賢者らが四角形を三角形へと変えるのもこれと同様の仕儀であるが、それはいわば《肉体》《霊》《魂》である。三つは《赤色》へと至るべき先行する三つ色彩を帯びて出現し《肉体》は土星の黒色を帯びた大地、《霊》は月の白色の水、《魂》は太陽の檸檬色である。三角形はふたたび円へと変えられることで恒久普遍の《赤色》を得て完全へと到達する。この過程で女性は男性に変換され一体化し、《六》という完全数の最初は《一》によって完成され、ふたたび単一体へと回帰した《二》には休息と永遠不滅の安寧がある。

ーー以上転載終/出典:AtlantaFugiens21ーー