♡航星日誌♡

・・・to boldly go where no one has gone before.

マニ車ならぬM写 笑

今日は時間がとれたので長めの書写。写経みたいなこうかがあるのかな。写経したことないのですが。わたし好きなのです。ただ書き写すの。瞑想状態かなたぶん。私の書写瞑想。好きな文章をただ書き写していると落ち着いて清らかな気持ちになる。短い時間で効果絶大だと思う。一番良いと思うのは暗唱できる文章を何も考えずにぼーっと書くの。慌ただしい日常から自分の定位置にすっとすぐに落ち着ける。


なぜなら錬金術の変容物質はまるくて四角いもの、すなわち四部分(四大)からなる一つの全きものだからである。それゆえグノーシス派の四つの部分からなる原人間も、主キリストの形姿も、「石の心象」のひとつなのである。西洋の錬金術が大部分がエジプトに源を発している以上、ここで先ず何よりも、ヘレニズム文化の刻印を帯びたあのヘルメストリスメギストスに注目するのは当然であろう。この伝説的形姿は中世のメルクリウスの名親であると同時に他方では古代エジプトのトートに由来している。(錬金術はヘルメスの術とも称される。)ところでこのトートの属性は狒狒(直訳すると犬の頭を持つ猿・犬猿)であった。それはまたそのままずばり猿として描写されることもあった。エジプトの「死者の書」の版本は無数に存在するがトートを猿と見ることの見方はその最初の版から最も後期の版に至まで一貫して変わることがなかったのであって、これは散見してみさえすれば誰の目にも一目瞭然である。錬金術の文献は少数の例外を除いてキリスト教の時代に属しており、ためにトート・ヘルメスと猿とのこの原初の結びつきはそれらの文献では消失してしまっている。(略)変容とはまさしく、最も低きものから最も高きものへの、動物的で太古的な幼児性から神秘的なホモ・マクシムスへの変容に他ならないのである。
(略)われわれが今扱っている夢の例は、意識が再生儀礼に見られる大昔の諸表象からたといどれほど遠ざかっているとしても、無意識は夢の中で諸表象を再び意識に近づけ、理解させようとするのだということを証明している。意識の自律と自給自足とは確かにそれなくしては意識が誕生し得なかったところの意識の特質ではあるが、しかしそれは同時にまた、孤立と荒廃の危険をも意味する。なぜならそれは、無意識を切り離し排除することによって、堪え難い本能喪失を招来するからであって、本能喪失こそは果てしない迷妄と混乱との源泉に他ならないからである。
最後に、夢見者が「真中」にではなく端の方にいるということについて触れるならば、これは夢見者の自我の上に起きるであろう事柄をはっきりと予示するものである。つまり、自我はもはや中心の位置を要求することはできず、たぶん衛星の位置に、少なくとも太陽の周りを廻る衛星の位置に甘んじなければならないだろうと言っているのである。中心という重要な位置は明らかに、再生さるべきギボンの占めるべき位置なのだ。ギボンは類人猿の一種であり、その人間との親近性のゆえに、人間の心の内の最下層を表現するには打ってつけの象徴である。心理学と錬金術,ユ




生と死の円環はそれ自身の内に完結しており、これは再生の円環であって『バルド・トゥエル』の教えを受けた者で、死んだ後に最高の認識に至れなかった者が再び生まれてくる円環である。つまり、彼にとっては、死後の教えは即ち誕生以前の教えなのである。ユ



ウロボロス、輪廻か




科学は平均的な概念をもって研究するものであり、個人の一生の主観的な多様性を正統に扱うにはあまりにも一般的すぎる。ユ


そうだね



錬金術師たちは、「作業(オプス)」は一なるものの内より生じ一なるものに還るのであって、いわば円循環の如きものであると再三再四語っているが、この円循環はまさしく自らの尾を噛む龍(ウロボロス)にほかならない ユ






集合的無意識は、個々人において発達するのではなく、遺伝していくものである。それは存在に先んずる形式であるいくつもの元型から成り立っている。この元型は間接的にしか意識化することができないが、意識の内容にはっきりした形式を与えている。ユ



「千金の子よりも万乗の君よりもあらゆる俗界の寵児よりも幸福である。」(暗唱書写瞑想。あのまわすチベットのお経効果みたいな。くるんと一回回すとお経を全部読んだのと同じ効果みたいな。最後の一文を書くだけで全文暗唱書写したのと同じ効果。のつもり 笑 マニ車ならぬM写と名付けることにしました 笑 )